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summersunday’s blog

忘れてしまいたいことや どうしようもない悲しさに 包まれたときに男は ブログを書くのです

なかむーのプロフィールvol2(長い長い)

プロフィール
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なかむー(@yuyachama)です。

 

気になった方のプロフィール、読んでいたらものすごく丁寧で等身大で、一気にファンになってしまいました。自分も読んでいただける方がいるかわかりませんが、より詳細に書きたくなりました。長いですよ!

 

プロフィールvol2

幼少期

埼玉県に住んでいました。父親は東京で働く人でした。

小さかったので、東京に住んでいると思い込んでいました。埼玉県の川口市に住んでいたようです。生まれてから4歳まで。生まれたのは母親の実家近くの病院、岐阜県です。父親の仕事の関係で家族で埼玉に住んでいました。兄が二人います。5つ上と7つ上。歳が離れていると言われます。兄たちは埼玉の記憶もがっつりあるようです。

父親は俗にいう転勤族で、3~5年に一度は転勤している人でした。その父親の仕事の関係で埼玉に住んでいました。こんな記事まで読んでくださる人に隠し事しても仕方ないと思うので言いますと、父親は公務員です。国家公務員。公務員宿舎に住んでいました。埼玉県の。幼馴染の子と、一緒に幼稚園に通っていた記憶が残っています。さっちゃん、元気かな?男の子ですけどね。あとは、私立の付属幼稚園で、武南高校というサッカーで全国大会に出る紫の色(当時)のユニフォームの高校の付属でした。いつか自分もあの色を着て全国大会に出るんだ、とサッカーをしていたように思います。4歳までの記憶として残っているのはこれくらいです。

 

幼稚園~小学校

名古屋に転勤となり、家族で引っ越しをすることに。自分でも記憶が定かではありませんが、新幹線に乗った記憶があります。父親だけは車で移動して、母親と兄弟と、付き添いでおばあちゃんが居たような記憶があります。幼稚園の年長さんから名古屋の幼稚園に通いました。幼稚園が嫌いでした。お昼休みに、壁を乗り越えたら家に帰れるかもしれない、そんなことを考えていた記憶があります。実行に移さなかったのは、それをしたらヤバイことになる、と思いとどまったのも覚えています。あとは、方言を話す同級生に違和感を感じていました。東京の人だったわけですから。名古屋の方言、なまりがありますよね?自分でも無口な方だったような気がします。相撲大会で準優勝したことは覚えています。なんで強かったかわかりませんけど、先生が驚いていたのは覚えています。そんなに太くもないのに、と。隣のクラスの先生がヤンキーぽくて怖かったな。

小学校は楽しかったです。勉強も簡単でしたし、足が速かったので、リレーの選手に選ばれて優越感を感じました。クラスの人気者だと自分では思ってました。朝起きるのが苦手で、よくお母さんの自転車の後ろに載せられて学校に行った記憶がありますけど。小学校はモテました。もうめちゃくちゃモテました。モテ期でした。本命チョコを4つ~5つくらいもらいました。本命ですよ?お返しを渡すためにお家に届けるとかいうイケメン対応までしました。低学年のときは、お習字、スイミング、サッカーと習い事をしていました。高学年で英語を習い始めましたが、長くは続きませんでした。

楽しかったはずなのですが、なぜか小学校の6年生のときに不登校に。理由は自分でもよくわかっていません。なんかダルい、行きたくない、が続いて、最初のうちは週に2,3回休んでいて、そのうちに行けなくなりました。理由もなく休むのですが、行く理由というか、きっかけも見失ってしまい、不登校の子となってしまいました。なんだったんでしょうか。ほんとに。行けるようになったきっかけは、兄にきつく叱られたことがきっかけです。めちゃくちゃ怒鳴られて、死ぬかと思ったので、学校に行かないと殺される、そんな気がしました。母親に一緒に登校してもらい、ケロっと学校に戻りました。戻ってみると、別に学校はこわいところでもなんとも無かったと思います。みんな優しかったし、気を遣わせていたように思いますけど。なんとか卒業式まで行けました。

 

中学校

中学校は輝いていたように思います。2つの小学校が合わさって1つの中学になる、公立の中学でした。名古屋市立です。都会?住宅街でした。4クラスの小学校と2クラスの小学校が合わさる、マイノリティの小学校出身でした。サッカー部に所属して、1年中サッカーをしていました。サッカーをしていると、習い事を続けてクラブチームに所属するか、中学校の部活をするか選択しなければいけませんでした。上手い子はクラブに所属する人が多かったです。ぼくの時代は。父親からプロになんてなれるわけないと言われていたので、お金もかからない中学の部活を選択しました。仲良しの友人も悩んだようですが、一緒に部活に。2年生にはレギュラーだったように思います。弱小校なので。

勉強もそこそこ頑張りました。クラスでは普通からちょっと上くらいの成績で、社会科の先生の雑学を聞くのが好きでした。理科も先生がとても丁寧で素敵な先生だったので得意でした。あとはそれなり。体育だけ常に5でした。3年生くらいから、サッカー部が引退になって、やることが無くて言われた通りに高校受験用のテキストをこなしていたら成績が上がってました。けっこう背伸びした進学校に通えることに。嬉しかったです。

 

高校

愛知県の県立高校に受かりました。勉強ができたというよりは、先生から成績以上に良い評価をもらえる得していたタイプだったと思います。授業は手を挙げてましたし。先生が、こういう回答が欲しいんだろな~とか考えて回答してました。

進学校でしたが、学校祭に力を入れたり、自由な校風でアルバイトOK、服装も制限が少ない、自主性を重んじる学校でした。自分はガチガチな校風も好きですが、みんなポテンシャルが普通に高い人ばっかりで、劣等感を感じました。勉強はできない方、スポーツも大したことない。そんなかんじでした。

高校は1年と少しだけ通いました。体調不良に陥りまして。今でも後を引きずっているように思いますが、精神科に入院しました。自分は何かに追われている、事件に巻き込まれるかもしれない、後ろからナイフを持った人が追いかけてくる、そんなことを感じていました。きっかけが何かわかりませんが、眠れない日が続いて、すぐ近くで人の息遣いが大きく聞こえたり、精神異常を起こしました。精神安定剤を飲み、2日~3日入院したように思います。

高校へは通えるはずもなく、高校2年の夏休みまではずっと休んでいました。夏休みに学校祭の手伝いに行ったのが最後でした。精神的な病が落ち着くと、近くのコンビニでアルバイトを始めました。社会復帰です。16歳でしたでしょうか。朝からコンビニで働いていると不思議に思われましたが、とても温かい人に囲まれて、頑張れました。

アルバイトが無い日には、近くの公園までランニングをして、本屋で立ち読みをする毎日でした。立ち読みをしているときに、留学の本に出会いました。不登校、高校中退を専門とする留学斡旋の会社に相談に行き、より一層行きたい気持ちが増して親に相談しました。費用や治安などを考えてニュージーランドに行くことに。今思うと、本当に素敵な体験ができたと思います。高校2年の2月~同級生が大学1年になる11月まで。在籍年数としては2年です。

ホームステイは、ニュージーランド人のパパと、マケドニアからの移民のママ、ホストブラザー(10歳)と、ママの両親で暮らしていました。ネコ2匹と犬1匹も。オークランドのデボンポートという場所です。比較的欧州系の富裕層が多い地域だったかと思います。もちろんラグビーしましたよ。国民的スポーツで、男子たるものラグビーボールに触れないことは無い、そんな慣習のある国でした。英語も勉強できました。今ではしばらく連絡取れていないのですが、留学でお世話になった方々には本当にいつか恩返しをしたいと考えています。

 

大学

留学から帰国して、小論文と面接と英語のスコア提出で大学に入学しました。一般受験では受からない場所だったかと思いますが、英語ができると得です。英語の単位が免除でした。

サークルはボランティア(地域の小学生とレクリエーション、地域の福祉施設で年配の方とお話)とラグビー(週3回)、アルバイトは塾講師やコンビニ、日雇い、ドラッグストア。ゼミは国際経済系のゼミでした。国際系の学科の授業に潜り込んで勉強させてもらうこともあって、勉強が楽しかったです。インドに留学に行かせてもらいました。インドの経済文化学習プログラムで、1か月ムンバイの近くに滞在しました。1か月のうち3週間は下痢でした。学生のころ、国境なき医師団の方が書いた本をきっかけに、アフリカで国際貢献活動がしたいと思って、国際NGOだとか、国連だとか、外交官だとかに憧れていましたが、インド滞在のときのダメージがひどく、夢を失ってしまいました。意識は高い系でしたが、結局は必要最低限の単位を取得し、あとの時間はアルバイトとサークルと、女の子を追っかける日々で終わりました。

就職活動はちゃんとしました。ちゃんと。内定は1つしか取れませんでしたし、例にもれずに悩んで病んで、悩んで病んで。大学は関西の私立の文系です。経済学部でした。

 

社会人1社目

内定をいただいた、関西の中小企業(規模60名弱)の会社に入社しました。営業志望でしたが、現場修行が積める、理系職種っぽい仕事を経験できました。CADCAM操作だとか、ものづくりの機械(フライス盤、マシニングセンター)を触ったり。1年目は辞めたいしんどい辛い、しか記憶にありません。怒られないで終わる日が無い、辛い辛い毎日でした。2年目は、上司が自分の様子を感じ取ってくれたのか、部署を異動させてくれました。2年目から直属の上司が本当に素敵な人で、その人のおかげで腐らずに仕事ができたと思っています。仕事って楽しい、って思えました。充実した毎日でした。それでも同期がデキる人ばかりで、劣等感を感じていました。

自分にとっての転機は、同期の中でも一番仕事ができる子が同じ部署に異動してきたときです。もちろん自分が1年くらい経験が長いので、仕事のやり方もスキルもその部署ではあるのですが、どんどん難しい仕事にチャレンジして、どんどんスキルを上げていく様子に感化されて、自分も負けられないと今まで億劫だった難しい仕事にも積極的に手を出すようになれました。仕事が本当に楽しかったです。

仕事に前向きになれたことが評価されたのかわかりませんが、希望だった営業に行けることになりました。4年目のことです。そこからは営業として外回りをしながら、希望通りの仕事ができていました。営業1年目は比較される同期が仕事でミスが多かったので相対的に評価されていたように思います。1年目の最後には東京へ異動になりました。

東京で暮らすことは昔から憧れだけがありました。自分にはお高い、遠い世界だと思っていましたが、仕事が楽しくて、前向きで、自信もあったので、東京で試したいと思った気持ちもありました。行ってすぐは、思うような仕事ができず、苦しんでいましたし、相変わらず女の子を追っかけてしまうことは止められませんでした。仕事は定時で終えて合コンに行く毎日もそれなりに楽しかったです。

それでも仕事が満足にできず不満を抱えていた時に、上司とも少しもめて、辞めてやろうと思い切って転職をしました。決して円満とは言えない辞め方でしたが、繋がっている人間関係もあるので、感謝です。

 

社会人2社目

年収を上げたいとか、安定してそう、名刺が強そう、そんな気持ちで転職した東京の会社。激務でした。思ってたんと違う!そう思いましたが我慢して数か月、体調不良に。眠れない、辛い、逃げ出したい。「うつ」と診断されて休職。東京で消耗していました。

休職して、自堕落に、社会のお荷物として生きながらえさせていただきました。4か月~5か月休み、地方の工場へ復帰させていただくことに。部署も変わり、心機一転。それでも社内の人とは関わらなければならず最初は苦悩しましたし、同じ職場の人も過去を知っているので扱いづらかったと思います。定時帰宅、出張禁止、そんな条件でしばらく働き、解禁までたどり着きました。いまは何とか1人分の作業量で仕事しています。残業禁止のころに、はてなブログを書き始めました。書き始めたきっかけは、イケダハヤトさんですかね。東京で消耗していたので。心に響いてましたよ。逃げていい、そう言ってくれているようで。逃げ方がダサくて、しょーもなかったので、決してカッコよくないのですが、これからの自分の生き方で、挽回しようと思います。

 

現在

肩書きは「サラリーマン」のままです。

プロブロガー、プロアフィリエイターを夢見ていますが、遠いですね。遠すぎません?同期ブロガーとか、同い年ブロガーとか、もう遠い遠い。でも一応これからもブログは書きたいです。感想記事書きます。検索される記事意識します。アフィリエイトももう少し勉強していきたいです。副業禁止だっけかな?

身バレは多少まずい気もしますが、オフ会には積極的に参加したいですし、いろんな方と知り合いになれるのが嬉しいです。ツイッターでの交流も大変たのしいです。あれ?なかむーじゃない?本人?って思ったら、そっとお知らせください。書いたらまずいことがあれば、すぐ消します。

 

プロフィール読んでいただきありがとうございます。

さいごまで読んだの、あなただけよ? 

 

 (約5500文字)

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